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[編集] 選考過程
(以下は『ダカーポ』2006年7月19日号掲載の「芥川賞・直木賞はこうして決定する」による。これは日本文学振興会スタッフ菊池夏樹への取材に基づくもの)
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上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは日本文学振興会から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ、SEM
各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6〜7回ずつ、計12回〜14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。
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最終候補作が決定した時点で、候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、住宅ローン 比較
下半期は1月中旬に築地の料亭・新喜楽1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる。
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[編集] 選考基準為替
[編集] 「新人」の基準
芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新進作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。野間宏、中村真一郎、三島由紀夫など戦中の芥川賞中断期に登場した作家は既成作家と見なされてことごとく候補からはずされており、島木健作や田宮虎彦、後述する井上光晴のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしば起こった。他方、オンラインゲーム
第5回(1937年)に受賞した尾崎一雄は、受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている[7]。第39回(1957年)に大江健三郎が受賞したときは、大江はまだ23歳の学生作家であったが、すでに本を何冊も出して有名作家となっていたことが議論の的となった[8]。大江の受賞が決定した時には、選考委員の佐藤春夫は「芥川賞は今日以後新人の登竜門ではなく、新進の地位を安定させる底荷のような賞と合点した」と皮肉を述べている。SSL
現在ではデビューして数年経ち、他の文学賞を複数受賞しているような作家が芥川賞を受賞することも珍しくなくなっている。近年では阿部和重が、デビューして10年たち作家的地位も確立していた2004年に芥川賞を受賞し、「複雑な心境。新人に与えられる賞なので、手放しで喜んでいられない」とコメントした。
[編集] 作品の長さ
芥川賞は短編・中編作品を対象としており、長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた石川達三は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回(1964年)受賞の柴田翔「されどわれらが日々―」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった[9]。第50回(1963年)芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の石川淳は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している[10]。またノーベル文学賞の候補となるなど国際的にも評価の高い村上春樹は芥川賞を受賞していないが、村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、すぐに長編に移行したことが理由の一つに挙げられる[11]。
なお「作品の短さ」は、本になったときに読みやすく、また値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている[12]。
[編集] 直木賞との境界
純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木賞との境界があいまいになることもしばしばある。第6回(1937年)直木賞には純文学の作家として名をなしていた井伏鱒二が受賞しており、直木賞選考委員の久米正雄は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている[13]。社会派推理作家の松本清張は「或る『小倉日記』伝」で1952年に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが、候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった[14]。第46回(1961年)の両賞では宇能鴻一郎が芥川賞を、伊藤桂一が直木賞をとり、このとき文芸評論家の平野謙は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている[15]。同様の事態は第111回(1998年)にも起こり、このときには私小説の作家であった車谷長吉が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた花村萬月、ハードボイルド調の作品を書いていた藤沢周が芥川賞を取ったことで話題となった。
芥川賞に比べて、直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、檀一雄、柴田錬三郎、山田詠美、角田光代などのように、芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは、柴田錬三郎「デスマスク」(第25回・1951年)、北川荘平「水の壁」(第39回・1958年)など、芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。
[編集] 批判
賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりとその商業的な性格を認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため、1937年に財団法人日本文学振興会を創設し両賞をまかなわせるようになったが、同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)[16]。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)プロレタリア文学の傑作のためには、小林多喜二賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。
文学賞に対する批判本『文学賞メッタ斬り!』を著した大森望、豊崎由美は、現在の芥川賞の問題点として、選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることをなどを挙げている。また豊崎は改善策として、選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の三分の一は文芸評論家にするなどの案を示している[17]。
[編集] 最年少・最年長受賞記録
特に若年での受賞や学生作家の受賞は大きな話題となる。最年少記録は、1966年の丸山健二の記録が40年近く破られていなかったが、2003年の綿矢りさ、金原ひとみの同時受賞で大幅に更新された
最年少受賞記録 順位 受賞者名 受賞年 受賞時の年齢
1 綿矢りさ 2004年(第130回) 19歳11ヶ月
2 金原ひとみ 2004年(第130回) 20歳5ヶ月
3 丸山健二 1967年(第56回) 23歳0ヶ月
4 石原慎太郎 1956年(第34回) 23歳3ヶ月
5 大江健三郎 1958年(第39回) 23歳5ヶ月
6 平野啓一郎 1999年(第120回) 23歳6ヶ月
7 青山七恵 2007年(第136回) 23歳11ヶ月
8 村上龍 1976年(第75回) 24歳4ヶ月
最年長受賞記録 順位 受賞者名 受賞年 受賞時の年齢
1 森敦 1974年(第70回) 61歳11ヶ月
2 三浦清宏 1988年(第98回) 57歳4ヶ月
3 米谷ふみ子 1986年(第94回) 55歳2ヶ月
[編集] 歴代ベストセラー作品
ここでは現在までの累計発行部数が100万部を超える受賞作を解説する(作品名は単行本タイトル。発行部数は『ダカーポ』2006年7月19日号に基づくもので、『蹴りたい背中』を除いて単行本と文庫との総計。古い時代のものは正確な売り上げデータが残っておらず売り上げに計上されていないものもある)